tag:blogger.com,1999:blog-20376162525927378342024-02-21T02:56:28.173+09:00作曲家・演奏家名鑑V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comBlogger16125tag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-53761363095068577072009-09-28T20:06:00.003+09:002009-09-28T21:37:19.053+09:00フェリックス・ワインガルトナーフェリックス・フォン・ワインガルトナー(Edler Felix Paul Weingartner von Münzberg, 1863年6月2日:ザーラ(オーストリア・ハンガリー帝国領ダルマチア。現・クロアチア) - 1942年5月7日:ヴィンタートゥール)は指揮者、作曲家。ユダヤ系。標準ドイツ語の発音に近い「フェーリクス・ヴァインガルトナー」と表記される場合もある。<br /><br />生涯<br /><br />4歳の時に父親の死去により、一家とともにグラーツに移る。グラーツ時代から音楽の勉強を始め、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの知己を得て、1881年にハンスリックの推薦でライプツィヒ大学に入学。初めは哲学を専攻するが、程なく音楽に身を投じグラーツ、ライプツィヒ、ヴァイマルの各音楽院で学んだ。ヴァイマルではフランツ・リストの弟子となった。1882年にはリストの推挙を受け、彼の作品を上演する機会に恵まれたが、安定した生活を求めて作曲家から指揮者に転じた。<br /><br />1885年にケーニヒスベルク、次いでダンツィヒ、ハンブルクの各歌劇場の指揮者となる。1889年にマンハイム国民劇場のホーフカペルマイスター、1891年にはベルリン宮廷歌劇場(現、ベルリン国立歌劇場)の首席指揮者となり、1898年まで務めた。1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場(現、ウィーン国立歌劇場)とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(当時は常任指揮者制)の音楽監督に就任した。歌劇場の方は3年で辞任(後に1934年~1936年のシーズン音楽監督に復帰している)したが、ウィーン・フィルの常任は1922年まで続いた。途中、1919年にはウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督も兼ねた。<br /><br />1934年から1936年にはザルツブルク音楽祭にも出演した。また、1898年以降イギリスのオーケストラにしばしば客演し、南北アメリカにも単身渡米での客演やウィーン・フィルとのツアーで訪れている。1937年に朝日新聞と日墺協会の招聘で、4度目の夫人(3度目とする書物もある)で指揮の弟子でもあったカルメン・テューダーとともに来日、夫婦で新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮した。ナチの勢力拡大とともにパリに逃れ、第二次世界大戦勃発直前にロンドンへ向かい、最後はウィーン辞任後定住していたスイスに戻り、1942年5月7日にヴィンタートゥールの病院で亡くなった。<br /><br />弟子にはヨーゼフ・クリップス、ハンス・スワロフスキー、クルト・ヴェス、ゲオルク・ティントナー等がいる。<br /><br /><br />レコーディング <br /><br />ワインガルトナーの初レコーディングは、1910年に自作の歌曲を、3番目の夫人(諸説ある)でもあるソプラノ歌手ルシール・マルセルの共演を得て録音したのが最初である。1923年にはオーケストラを指揮してのレコーディングを開始。以後、ワインガルトナーの残した録音は、米コロムビアに残した若干数を省くとすべてEMI(英コロムビア時代も含める)からのリリースである。<br /><br />1999年に、新星堂と東芝EMIの企画で、ワインガルトナーのEMI録音をすべて網羅した24枚組のCDセットを販売した他、現在では、代表的な録音がナクソス・ヒストリカルやオーパス蔵から異なる趣向の音質でもリリースされている。<br /><br />バッハ <br />管弦楽組曲第3番(1939年) <br /><br />ヘンデル <br />合奏協奏曲Op.6-5(1939年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団) <br />合奏協奏曲Op.6-6(1939年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団) <br />歌劇「アルチーナ」抜粋(1939年) <br /><br />ボッケリーニ <br />ボッケリーニのメヌエット(1931年) <br />ハイドン(当時。レオポルト・モーツァルト説を経て、現在はエトムント・アンゲラーが真の作曲者とされる) <br />おもちゃの交響曲(1931年4月7日、ブリティッシュ交響楽団) <br /><br />モーツァルト <br />交響曲第39番(1923年、1928年、1940年) <br />「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 <br /><br />ベートーヴェン <br />交響曲全集 <br />第1番(1937年10月19日、ウィーン・フィル) <br />第2番(1938年3月2日、ロンドン交響楽団) <br />第3番(1936年5月22日・23日、ウィーン・フィル) <br />第4番(1933年11月13日・14日、ロンドン・フィル) <br />第5番(1932年3月17日・18日、ブリティッシュ交響楽団) <br />他に1924年、1927年、1930年にもレコーディングをしている <br />第6番(1927年1月18日・19日、(旧)ロイヤル・フィル) <br />第7番(1936年2月24日~26日、ウィーン・フィル) <br />他に1923年、1927年にもレコーディングをしている <br />第8番(1936年2月26日、ウィーン・フィル) <br />他に1923年にもレコーディングをしている <br />第9番(1935年2月2日~4日、ウィーン・フィル) <br /><br />いわゆる「ワインガルトナー版」と呼ばれる校訂版であり、弦をはじめ一部のパートのオクターブを高く移動し、作曲当時の楽器の性能による制限にとらわれず高音部においても動機を自然な形で再現しているが、現在はあまり省みられない。<br /> <br />他に1926年にもレコーディングをしている。1926年盤は歌詞が英語で歌われている。 <br />「ハンマークラヴィーア」管弦楽編曲版(1930年3月26日~31日、(旧)ロイヤル・フィル) <br />三重協奏曲(Vn:リカルド・オドノポソフ、Vc:ステファン・オーベル、Pf:アンヘリカ・モラレス、1937年10月20日・21日、ウィーン・フィル)<br /> <br />ピアノ協奏曲第3番(1939年6月10日、Pf:マルグリット・ロン、パリ音楽院管弦楽団)<br /> <br />「プロメテウスの創造物」序曲(1933年11月14日、ロンドン・フィル) <br />「エグモント」序曲(1937年10月19日、ウィーン・フィル) <br />「エグモント」間奏曲第2番、"クレールヒェンの死"(1938年10月7日、ロンドン・フィル) <br />「フィデリオ」序曲(1938年10月7日、ロンドン・フィル) <br />「献堂式」序曲(1938年10月7日、ロンドン・フィル) <br />「アテネの廃墟」序曲(1940年2月29日、ロンドン響。ワインガルトナー最後のレコーディング) <br />11のウィーン舞曲WoO.17(ベートーヴェンの真作かどうか疑わしい)(1938年10月7日・8日。ロンドン・フィル) <br /><br />ブラームス <br /><br />交響曲全集 <br />第1番 <br />第2番 <br />第3番 <br />第4番 <br />大学祝典序曲(1940年2月29日、ロンドン響) <br />ハイドンの主題による変奏曲 <br /><br />シューベルト <br />「ロザムンデ」間奏曲第3番(1928年5月3日、バーゼル管弦楽団) <br /><br />ベルリオーズ <br />幻想交響曲(1925年) <br />歌劇「トロイ人」トロイ人の行進(1939年) <br /><br />リスト <br />ピアノ協奏曲第1番、第2番(1938年、Pf:エミール・フォン・ザウアー、パリ音楽院管) <br />「前奏曲」 <br /><br />ウェーバー <br />「魔弾の射手」序曲(1927年。1931年、パリ交響楽団。映像) <br /><br />メンデルスゾーン <br />交響曲第3番 <br /><br />ワーグナー <br />「神々の黄昏」より『ジークフリートのラインの旅』、『ジークフリートの葬送行進曲』(パリ音楽院管) <br />シュトラウス一家(ヨハン・シュトラウス2世、ヨーゼフ・シュトラウス) <br />「春の声」(1931年4月8日、ブリティッシュ響) <br />「千一夜物語」(1931年4月8日、ブリティッシュ響) <br />「無窮動」(1929年5月3日、バーゼル管) <br />「ピチカート・ポルカ」(1929年5月3日、バーゼル管) <br />「酒・女・歌」(1929年5月3日、バーゼル管。1939年7月22日、パリ音楽院管) <br />「美しく青きドナウ」(1927年1月28日・1月30日、(旧)ロイヤル・フィル) <br />「天体の音楽」(1930年4月1日、(旧)ロイヤル・フィル)<br /><br /><br /> <br />作曲 <br /><br />オペラ <br />「シャクンタラ」(1884) <br />「マラウィカ」(1886) <br />「ジェネシス」(1892) <br />「カインとアーベル」(1914) <br />「小人夫人」(1916) <br /><br />室内楽 <br />ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ニ長調op42-1 <br />ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番嬰ヘ短調op42-2 <br />折りふしの綴り~ピアノのための8つの小さな叙情的描写op4 <br /><br />その他 <br />交響曲第6番「悲劇的、シューベルトを偲んで」ロ短調op74(第2楽章は「未完成」の第3楽章のスケッチを下敷きにしたもの) <br />「フジヤマ」(山部赤人の和歌による) <br />歌曲「羊飼いの日曜日の歌」 <br />歌曲「春の幻影」 <br /> <br /><br />編曲 <br /><br />ベートーヴェン:「ハンマークラヴィーア」 <br />ベートーヴェン:「大フーガ」Op.133 <br />ウェーバー:「舞踏への招待」 <br />シューベルト:交響曲ホ長調D.729 <br />シューベルト:「夜と夢」<br /><br /><br /><br />Felix Weingartner : Richard Wagner : Siegfried Idyll : Teil 1<br /><br /><object width="560" height="340"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/u8VRtaaww64&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/u8VRtaaww64&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="560" height="340"></embed></object><br /><object width="560" height="340"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/vcLZwTYOmrA&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/vcLZwTYOmrA&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="560" height="340"></embed></object><br /><br /><br />Felix Weingartner conducts Brahms Symphony 3<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/J9CMwVqpQdA&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/J9CMwVqpQdA&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/5rOSSjikshU&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/5rOSSjikshU&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/pbab6FrKC1M&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/pbab6FrKC1M&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/2NdkrpUBhOw&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/2NdkrpUBhOw&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-67775513129971617372009-09-28T19:50:00.001+09:002009-09-28T20:06:17.132+09:00ヤロミール・ヴァインベルゲルヤロミル・ヴァインベルゲル(Jaromír Weinberger、1898年1月8日 プラハ - 1967年8月8日 フロリダ州セイント・ピーターズバーグ)は、ドイツ語風の「ヤロミール・ヴァインベルガー(またはワインベルガー)」の表記で知られるチェコ出身の作曲家。<br /><br />プラハ音楽院でカレル・ホフマイステルに師事した後、20歳の時ライプツィヒ音楽院に留学してマックス・レーガー教授の作曲科に在籍。1930年代にアメリカ合衆国に亡命し、第二次世界大戦後にチェコスロヴァキアに一時帰国。再び米国に戻り、1948年にアメリカの市民権を取得。しかしその後脳腫瘍を発症し、作品への無理解と貧困が重なり、薬物により1967年に自殺を遂げた。<br /><br />彼は100曲以上の作品を残したが、主な作品には歌劇《バグパイプ吹きシュヴァンダ (Svanda dudak)》(1927年)、歌劇《愛しき声 Die geliebte Stimme》(1931年)のほか、管弦楽曲《「大きな栗の木の下で」による変奏曲とフーガ》がある。<br /><br /><br />Weinberger - Schwanda: Polka and Fugue, Reiner - CSO<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/DDhdEXK1M3A&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/DDhdEXK1M3A&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/vccclRjp11Q&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/vccclRjp11Q&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-16238145082515139972009-08-03T23:12:00.002+09:002009-08-03T23:57:01.888+09:00セルゲイ・ワシレンコセルゲイ・ニキフォロヴィチ・ワシレンコ(Сергей Никифорович Василенко, *1872年3月30日 モスクワ - 1956年3月11日 同地)はロシアの音楽教師・作曲家・指揮者。帝政末期からソ連揺籃期に活躍した。<br /><br />生涯 <br /><br />1888年に初めて音楽教育を受け、それからの数年間は、余暇でとくにアレクサンドル・グレチャニノフの個人指導を受けた。1891年にモスクワ大学で法理学を専攻し、1896年に修了する。1895年からピアノと作曲をモスクワ音楽院に学ぶ。とりわけセルゲイ・タネーエフの薫陶を受けた。1901年に金メダルを得て音楽院を卒業し、1903年から1905年までマモントフ歌劇場の指揮者に就任する。1906年よりモスクワ音楽院の作曲ならびに管弦楽法の講師に任命され、早くも翌年には教授に昇格。第二次世界大戦中の短期間の中断を除いて、亡くなるまで音楽院に勤続した。1907年から1917年まで、ロシア音楽協会の「歴史的演奏会」をモスクワで主宰し指揮した。<br /><br />ロシア革命の後ではソ連全土を頻繁に巡って、多様な民族音楽に通じようとした。それと同時に、数多くの演奏活動もこなしており、そのうえ数々の公務にも就いていた。受けた栄誉も数多く、1939年にロシア人民芸術家およびウズベク人民芸術家に推挙され、さらに1947年には、芸術学博士号を授与されるとともに、「歌劇《ミランドリーナ》による管弦楽組曲」に対してスターリン賞が贈られた。<br /><br />作曲様式 <br /><br />ワシレンコの作品は、2つの時期に分けることが出来る。第1期でワシレンコは、同時代の潮流に強く影響され、象徴主義や印象主義の影響に浴していた。しかし、1920年代を下るにつれて、ワシレンコはその方向から背を向けて、それからというもの、様々な国々の民族音楽にとりわけ関心を寄せた。ロシアやウクライナの民謡に加えて、ウズベクやトルクメン、極東の民謡にさえのめり込み、そのためにワシレンコのその時期の作品には、ある種の異国趣味が入り込んでいるのが認められる。ワシレンコの楽曲は、19世紀ロシアの芸術音楽の伝統に深く根差しているが、それでもことに和声法に関する限り、はっきりと国民楽派の伝統とは異なっている。それでも(ワシレンコの和声法は)「拡張された調性」の枠内でうつろい、調性破壊に踏み越えることはない。<br /><br />ワシレンコは指揮者として活動したために、作品は管弦楽曲が多い。管弦楽作品はいずれも、音色のこの上ない豊かさや、管弦楽法の巧みさが特徴的である。ワシレンコは民族楽器にも興味を持っていた。つまるところワシレンコは、当時のロシア音楽の発展における典型的な代表者なのであった。ワシレンコの創作は、世紀末の帝政ロシアの流行から、ソ連政府によって公式化された社会主義リアリズムの美学に向かって広がりを見せている。<br /><br />主要作品一覧 <br /><br />交響曲 <br /><br />交響曲 第1番 ト短調 作品10 (1904年 - 06年) <br />交響曲 第2番 ヘ長調 作品22 (1913年) <br />交響曲 第3番「イタリア」イ長調 作品81(バラライカ・オーケストラとドムラ、吹奏楽のための) (1934年) <br />交響曲 第4番「北極」ニ短調 作品82 (1934年) <br />交響曲 第5番 ホ短調 作品123 (1947年) <br /><br />協奏的作品 <br /><br />ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品128 (1949年) <br />ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品25 (1913) <br />バラライカ協奏曲 ハ長調 作品63 (1929) <br />チェロ協奏曲 イ長調 作品112 (1944年/45年) <br />トランペット協奏曲「協奏的詩曲」ハ短調 作品113 (1945年) <br />ハープ協奏曲 ヘ長調 作品126 (1949年) <br />クラリネット協奏曲 変ロ短調 作品135 (1953年) <br />ホルン協奏曲 変ロ長調 作品136 (1953年) <br />フルート独奏と管弦楽のための組曲『春に』 作品138 (1954年) <br /><br />管弦楽曲 <br /><br />交響詩『死の庭』 作品12 (1908年) <br />魔女の飛翔 作品15 (1909年) <br />中国組曲 第1番 作品60 (1928年) <br />中国組曲 第2番 作品70 (1931年) <br />インド組曲(バレエ《ノヤ》による) 作品42bis (1927年) <br />ウズベク組曲 作品104 (1942年) <br />ウクライナ組曲 作品121 (1945年) <br /><br />バレエ <br /><br />ノヤ 作品42 (1923年) <br />美男ヨシフ 作品50 (1925年) <br /><br />歌劇 <br /><br />大いなる都市キーテジと静かなる湖スヴョトヤル 作品5 (1908年) <br />コロンブス 作品80 (1933年) <br />ミランドリーナ (1946年) <br /><br />声楽曲 <br /><br />ロシア革命20周年記念のカンタータ 作品92 (1937年) <br />歌曲(多数) <br /><br />室内楽曲 <br /><br />弦楽四重奏曲 第1番 イ長調 作品3 (1901年) <br />弦楽四重奏曲 第2番 ホ短調 作品58 (1927年) <br />ピアノ三重奏曲 変イ長調 作品74 (1932年) <br />ヴィオラ・ソナタ 作品46 (1923年) <br />トルクメンの主題による五重奏曲(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットと打楽器のための) 作品65 (1930年) <br /><br /><br />Vasilenko Concerto op 113, em dó maior, para trompete 3º and<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/SjOf54TA3G0&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/SjOf54TA3G0&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />VASILENKO. "Заклинание" ("Invocation"), op. 16, no. 5.<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Cmn0D5YzAtk&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Cmn0D5YzAtk&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-43773962391776965502009-07-30T22:06:00.002+09:002009-07-30T22:14:14.254+09:00カスパール・ヨハネス・ワルターカスパール・ヨハネス・ワルター(Caspar Johannes Walter, 1964年 - )は、ドイツの現代音楽の作曲家、チェリスト。<br /><br /><br />略歴<br />1964年生まれ。ヨハネス・フリッチュとクラレンス・バーロウに師事した。20代前半から頭角を現し、メンヘングラートバハ国際作曲賞優勝、ウィーンモデルン国際作曲賞優勝、入野賞優勝、ヒンデミット賞受賞で脚光を浴びる。当初は純正律のみで作曲を志したが、イワン・ヴィシネグラツキーの四分音理論に触発されたのがきっかけで、作品リストを立ち上げることになった(この経緯はファーストアルバムのライナーから)。親日家でもあり、尺八を使ったトリオの書下ろしなど活動当初は日本での紹介も目立った。<br /><br />虚空に打たれる「点」と、長く伸びる「線」のイントネーションを、聴覚上で追求する語法は青年期から一貫して続いており、それぞれに異なった装飾を特殊奏法で和える。点と線による造形感覚と時間構造の良さは、親族に美術家がいることからの影響も指摘されている。基本テンポは常に遅い。演奏家への挑戦はきつく、トランペットの最高音域と最低音域が5オクターブに及んだことがあった。<br /><br />自らは優れたチェリストでもある。ここからは名人芸の追及といったことよりも、指版上で追求できる多彩な音律に興味があるようであり、自らが結成したチェロトリオブリュの活動においても、多彩な音律を駆使する作品の紹介が際立っている。後にパートナーとなったカロラ・バウクホルトと共同でトゥルムヘン出版社(後に同名のアンサンブルも設立)を立ち上げゲオルグ・ハジドゥの17平均律の書籍を出版していることからも、多彩な音律への興味は明らかである。<br /><br />近年はあらかじめスコルダトゥラした撥弦楽器や弦楽器を編成にいれて、ノイズのない響きの歪みと音色の美しさを追求する境地に至ったが、作風は全く変わっていない。現在もドイツの作曲家の中堅として評価が特に高く、常時委嘱の入る作曲活動を行っている。<br /><br /><br />主要作品<br /><br />半透明練習曲集 <br />ピアノ四重奏曲 <br />物語の終わり <br />ヴェルナー・Kのための音楽<br /><br /><br />Caspar Johannes Walter - Angst und Ahnung <br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/5nVuhDUCMOc&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/5nVuhDUCMOc&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/epoS9XsmVK0&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/epoS9XsmVK0&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-68532401934389644622009-07-30T21:56:00.001+09:002009-07-30T22:06:34.865+09:00エミール・ワルトトイフェルエミール・ワルトトイフェル(Émile Waldteufel, 1837年12月9日ストラスブール - 1915年2月12日パリ)は、フランスの作曲家。大衆音楽、とりわけワルツ「スケートをする人々」「女学生」やポルカなどのダンス音楽の作曲家。出身地アルザスはドイツ語圏であり、1793年以前および1871年から1918年まではドイツ領であったが、ワルトトイフェルもその名が示すとおり、シャルル・ミュンシュ、アルベルト・シュバイツァーらの多くのアルザス人と同じくドイツ系といわれる。<br /><br />生涯 <br />一族は音楽家、父ルイは有名なオーケストラの統率者で、兄レオンは人気の音楽家だった。レオンがパリ音楽院に入学したのを期に、一家でパリに転出し、以降エミールは一生をこの地で過ごす。1853年から1857年までパリ音楽院でピアノを学ぶ。同級生に有名なオペラ作曲家マスネがいた。この間、父親のオーケストラがパリで最も有名な楽団となり、しばしばエミールも重要な行事に招かれて演奏した。<br /><br />28歳の時、ナポレオン3世の皇后ウジェニーの宮廷ピアニストになる。普仏戦争の後は、父親の楽団がエリゼ宮の大統領の間で演奏を行なった。この頃にはエミール・ワルトトイフェルの名はフランス上流社会の間ではほとんど知られておらず、有名になったのはやっと40歳になってからだった。<br /><br />1874年10月にワルトトイフェルは、当時英国皇太子だったエドワード7世の臨席する行事で演奏を行う。自作のワルツ『マノロ』(Manolo )にエドワード7世が魅了されると、ワルトトイフェルの名はイングランドで有名になり、ロンドンを拠点とする出版社Hopwood & Crewが彼と長期契約を結んだ。だからといって、ワルトトイフェルの作品がバッキンガム宮殿において御前演奏されたということにはならない。ワルトトイフェルの名はロンドンの楽壇を制すると、世界中で有名になった。最も有名な、今なおよく演奏されるワルトトイフェルの作品が作曲されたのも、この時期である。有名な『スケーターズ・ワルツ』(Les Pâtineurs )が作曲されたのは1882年のことである。<br /><br />エミール・ワルトトイフェルはいくつかのヨーロッパの都市で演奏を行なった(1885年ロンドン、1889年ベルリン、1890年~1891年パリ)。1899年に宮殿の間のためのダンス音楽を作曲・指揮して引退するまで、活動を続けた。<br /><br />声楽家の夫人セレスティーヌ・デュフォーとの間に二男一女をもうけた。<br /><br /> <br /><br />主要作品<br /> <br />ワルトトイフェルは、ヨハン・シュトラウス2世と違って、ヴァイオリンの弓よりも指揮棒を振って楽団を指揮した。作曲はまずピアノで行なってから、後でオーケストレーションを施した(近年、ピアノによる草稿の録音がCDで発売されている)。<br /><br />ワルトトイフェルのオーケストレーションは2管編成を基準としつつも、金管楽器が充実している。シュトラウスの大胆で「男性的な」作風に比べると、ワルトトイフェルは巧妙な和声法と優雅なフレーズが特徴的である。ワルトトイフェルの作品は革命的とはいえず、そういうわけで印象主義音楽がパリを制する時代となると、時代の趣味から取り残されたのである。<br /><br /><br />ワルツ「テレサ」または「アントワネット」 Térésa (Antoinette) waltz op.133 (1864) <br />ポルカ=マズルカ「草上にて」 Dans le champs op.125 (1868) <br />ワルツ「すみれ」 Violettes op.148 (1876) <br />ワルツ「私の夢」 Mon rêve op.151 (1877) <br />ワルツ「ポモーヌ」 Pomone op.155 (1877) <br />ワルツ「水の妖精」 Les Sirènes op.154 (1878) <br />ワルツ「愛しの彼女」 Très Jolie op.159 (1878) <br />ワルツ「金色の雨」 Pluie de diamants op.160 (1879) <br />ワルツ「魅力的な彼女」 Ma charmante waltz op.166 (1879) <br />ワルツ「孤独」 Solitude op.174 (1881) <br />ワルツ「スケートをする人々」(スケーターズ・ワルツ) Les Pâtineurs op.183 (1882) <br />ワルツ「女学生」 Estudiantina」(1883) <br />軍楽風ワルツ「擲弾兵」 Les Grenadiers op.207 (1886) <br />シャブリエの狂詩曲に基づくワルツ「スペイン」 España op.236 (1886) <br />ポルカ「ロココ風」 Rococo-Polka op.232 (1888) <br />ワルツ「まぼろし」 Vision op.235 (1888)V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-22039161512845937192009-07-16T00:15:00.000+09:002009-07-16T00:33:07.173+09:00アレクサンドル・ワルラモフアレクサンドル・エゴロヴィチ・ワルラモフ(ヴァルラーモフ、Aleksandr Egorovich (Yegorovich) Varlamov, 1801年 - 1848年)は帝政ロシアの作曲家。<br /><br />ワルラモフは帝室礼拝堂合唱団で教育を受け、のちにその教師となった。また、ロシア語の合唱・芸術歌曲(ロマンス)の発展に尽くした人物でもあった。<br /><br />作品はあまり知られていないが、名曲「赤いサラファン」の作曲者でもある。<br /><br /><br /><br />Alexander Varlamov - What For Should I Cry<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/vDSshPsf3BQ&hl=ja&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/vDSshPsf3BQ&hl=ja&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-45324804355321749172009-06-04T20:23:00.002+09:002009-06-04T20:27:56.876+09:00アレッサンドロ・スカルラッティアレッサンドロ・スカルラッティ(Alessandro Scarlatti, 1660年5月2日 - 1725年10月24日)はバロック期のイタリアの作曲家。特にオペラとカンタータで著名である。オペラにおけるナポリ楽派の始祖と考えられている。また、同じくバロック期の作曲家であるドメニコ・スカルラッティとピエトロ・フィリッポ・スカルラッティの父でもある。<br /><br /><br />生涯 <br /><br />アレッサンドロ・スカルラッティ(以下スカルラッティ)はシチリア島のトラーパニもしくはパレルモで生まれた。初期の作品がストラデッラやレグレンツィといった北イタリアの作曲家の影響を受けていることから、スカルラッティはローマのジャコモ・カリッシミに師事していたとされている。<br /><br />ローマで作曲したオペラGli Equivoci nell’amore(1679年)が当時ローマに滞在していたスウェーデン女王クリスティーナの目に留まり、スウェーデンの宮廷楽長となった。1684年2月、オペラ歌手でナポリの権威ある貴族の当主でもあった姉の説得を受け、スカルラッティはナポリ総督宮廷楽長となる。スカルラッティはナポリで長編のオペラを作曲し、その数々は儀式用に作曲された作品同様、特筆すべき流麗さと豊かな表現力を兼ね備えていた。<br /><br />1702年、スカルラッティはスペイン継承戦争の渦中にあったナポリを逃れ、その終結までの間各地を転々とした。トスカーナ大公フェルディナンド3世の庇護を受け、フィレンツェ近郊にあった公の劇場での上演用にオペラを作曲した。その後、オットボーニ枢機卿の楽長を務め、1703年にはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の教会楽長に就任した。<br /><br />1707年、ヴェネツィアとウルビーノを訪れた後、1708年にスカルラッティはナポリに復帰し、1717年まで留まった。この時までに、ナポリの人々はスカルラッティの音楽に飽きていた。一方でローマではスカルラッティの音楽を評価する声が高かった。Telemaco(1718年)、Marco Attilio Regolò(1719年)、Griselda(1721年)といった、ローマのカプラニーカ劇場で上演された彼の素晴らしいオペラの数々は、1721年に聖セシリアの祝日のためにアクアヴィーヴァ枢機卿に献呈された合唱とオーケストラによるミサを含む気品高い教会音楽の作品群同様、高い評価を受けていたのである。スカルラッティの生涯最後の作品は、1723年、スティリアーノ王子の婚礼のために作曲され未完成に終わったセレナータであった。スカルラッティは1725年ナポリにて没した。<br /><br /><br /><br />スカルラッティの音楽 <br /><br />スカルラッティの音楽は、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマを中心として発展した17世紀の初期バロックにおけるイタリアの声楽様式とモーツァルトで全盛を極める18世紀における古典楽派との間の重要な橋渡しとして位置付けることが出来る。スカルラッティの初期のオペラ(Gli Equivoci nel sembiante(1679年)、L'Honestà negli amori(1680年)、Pompeo(1683年)他、1685年以前に書かれた作品)は、レチタティーヴォにおいて古い形式の終止を維持しており、また巧みに構成された様式が多くの魅力的な短いアリアの中で用いられていた。これらは時として注意深く作り上げられた弦楽四重奏によって、また時にはチェンバロのみによって伴奏されていた。1686年までに、スカルラッティが「イタリア風序曲」の形式を確立していたことは断定的である。スカルラッティはグラウンド・バスと二部形式によるアリアを捨て去り、三部形式あるいはダ・カーポを用いた三部形式を支持した。この時期のスカルラッティによる最も優れたオペラとして、 La Rosaura(1690年)、Pirro e Demetrio(1694年)がある。<br /><br />1697年以後からは、おそらくジョヴァンニ・ボノンチーニの様式およびナポリ総督宮廷の趣味に影響され、スカルラッティのオペラにおけるアリアは、リズムにおいてより均質かつありふれたものとなる。彼の譜面を見ると、急作りで十分な推敲がなされていないものの、その音楽は壮麗さを失ったという訳ではなかった(Eracles(1700年))。オーボエやトランペットが頻繁に用いられるようになり、ヴァイオリンはしばしばユニゾンで奏でられていた。<br /><br />1707年、ヴェネツィアのために作曲されたMitridate Eupatoreは、スカルラッティの傑作とされている。この作品に含まれた曲は、技巧と知性の両面において、ナポリ時代に書かれた作品に比して格段の進歩を示している。ナポリにおいて後期に書かれたオペラ(L'Amor volubile e tiranno(1700年)、La Principessa fedele(1712年)、Tigrane(1715年)他)は、情緒的であるというよりもむしろ華やかで印象的である。管弦楽法は以前の作品と比較して大きな進歩を見せていた。声楽の伴奏は弦楽四重奏によってなされ、チェンバロの使用はリトルネロに限定されるようになっていたのである。オペラTeodora(1697年)において、スカルラッティはリトルネロを初めて使用した。<br /><br />ローマのために作曲されたスカルラッティによる最後のオペラの作品群は、特にレチタティーヴォにおいて詩趣に富む感情と奔放かつ荘厳なメロディー様式、劇的な感覚を示している。また、管弦楽法はホルンが初めて用いられるなどより近代的な様式となり、印象的な効果を醸成していた。<br /><br />オペラに加え、オラトリオ(Agar et Ismaele esiliati(1684年)、Christmas Oratorio(1705年頃)、S.Filippo Neri(1714年)他)やセレナードも全てオペラ同様の様式を示している。スカルラッティは500以上の独唱のための室内カンタータを作曲した。これらは当時における室内楽のうちで最も知性に溢れる類のものである。<br /><br />少数のみが現存しているスカルラッティの手によるミサと教会音楽は比較的重要ではない。しかし、「聖セシリアのミサ St Cecilia Mass(1721年)」だけは例外であり、バッハやベートーヴェンによって高みに達する合唱とオーケストラによる編成のミサ曲の最初期の作品の一つとして極めて重要である。スカルラッティによる器楽音楽は、奇妙なことに声楽音楽に比して古風な様式で書かれている。<br /><br />"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3" より作成V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-67972472525226544972009-06-04T20:15:00.002+09:002009-06-04T20:22:28.593+09:00ドメニコ・スカルラッティドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685年10月26日 - 1757年7月23日)は、イタリアのナポリ出身で、スペインのマドリードで没した作曲家。同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれているが、スカルラッティもその時代の鍵盤曲に新しい用法を取り入れた重要な作曲家である。鍵盤楽器のための「ソナタ」と呼ばれる個性豊かな555曲の作品群で知られる。<br /><br />作曲家のアレッサンドロ・スカルラッティは父親。<br /><br /><br />略歴 <br /><br />1685年10人兄弟の6番目の子としてナポリに生まれる。 <br />1701年ナポリの教会付き作曲家兼オルガン奏者となる。 <br />あるときローマでヘンデルとチェンバロおよびオルガンの腕前を競いあったという逸話が伝わっている。 <br />1720年または1721年にリスボンに行きマリア・マグダレーナ・バルバラ王女に音楽を教える。 <br />1729年マリア・バルバラがスペイン王家に嫁いだため、マドリードへ行く。ドメニコは25年ほどスペインに滞在し、5人の子どもをもうけた。 <br />1757年マドリードで没す。彼の子孫一族は今日でもスペインで生活している。 <br /><br /><br />作品 <br /><br />スカルラッティは鍵盤楽曲の作曲者として有名であるが、歌劇や宗教曲なども遺している。<br /><br />スカルラッティの作品を整理する作品番号は4種類ある。 Pestelli 番号(P. と略する)、Longo 番号(L.)、Kirkpatrick 番号(K. または Kk.)、音楽学者で鍵盤楽器奏者のエミリア・ファディーニがつけたFadini番号(F.)であり、現在最も多く使われているのはラルフ・カークパトリックによる Kirkpatrick 番号である。<br /><br /><br />歌劇 <br /><br />王位回復したオッタヴィア(33曲のアリアのみ現存) <br />イレーネ(33曲のアリアのみ現存) <br />シーロのテティーデ(最後の4ページ消失) <br />ハムレット <br />捨てられたディドーネ <br /><br /><br />管弦楽曲 <br /><br />17のシンフォニア <br /><br /><br />鍵盤作品 <br /><br />555曲のソナタ <br />ソナタ イ長調(疑作?) <br />ソナタ イ長調 <br />ソナタ ハ長調(疑作?) <br />ソナタ ニ長調(疑作?) <br />ソナタ ニ短調 <br />ソナタ ホ長調(疑作?) <br /><br /><br />セレナータ <br /><br />四季の口論(第2部消失) <br /><br /><br />オラトリオ <br /><br />クリスマス・カンタータ <br /><br /><br />宗教作品 <br /><br />ミサ曲 ニ長調 <br />ミサ曲 イ短調 <br />4声のミサ曲 ト短調 <br />テ・デウム <br />われ喜びに満てり <br /><br /><br />カンタータ <br /><br />A chi nacque infelice <br />Che si peni in amore <br /><br /><br /><br />校訂版 <br /><br />出版当初より、ロンゴの校訂はピアノのために恣意的すぎると批判がなされたため、ケネス・ギルバートがウジェル社より全鍵盤作品の校訂を発表。しかしながら、この校訂もエミリア・ファディーニによって再批判がなされ現在に至るが、ファディーニ版は30年以上にわたる校訂をもってしても2008年現在完結していない。V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-66640968444391563152009-05-12T22:14:00.002+09:002009-05-12T22:24:52.110+09:00レオポルド・ゴドフスキーレオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, ポーランド語 Leopold Godowski, 1870年2月13日-1938年11月21日)は、ポーランドのピアニスト、作曲家、教師。「ピアニストの中のピアニスト The Pianist of Pianists」と呼ばれる。<br /><br /><br />ピアニストとしてのゴドフスキー <br />ゴドフスキーは現在のリトアニアの首都ビリニュスの近く、ソズウィ Sozły に生まれた。幼少の頃、彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていた。14歳になるとベルリン高等音楽院に入学し、エルンスト・ルドルフ Ernst Rudorff の下で研鑽を積み始めるも3ヶ月で辞めてしまう。それ以外では、彼は基本的に独学家だった。<br /><br />コンサート・ピアニストとしての活動(最終的にオーストラリアと南極を除く全大陸に及ぶことになる…日本も含む)を開始したのは、ゴドフスキーが僅か10歳の時だった。1886年、北アメリカの巡回公演後、ヴァイマルにいるフランツ・リストの下で勉強しようと思いヨーロッパに戻ってくるが、直後にリストの死を知り、パリへ赴く。パリで彼は作曲家=ピアニストであったカミーユ・サン=サーンスと親交を結ぶ。サン=サーンスとの出会いは、ゴドフスキーに当時の優れたフランスの音楽家達と知り合うきっかけを与えた。サン=サーンスはゴドフスキーを養子にし姓を継いでもらうよう申し入れたが、ゴドフスキーがそれを辞退するとサン=サーンスは大変不機嫌になったという。<br /><br />1890年、ゴドフスキーは教師としてニューヨーク音楽大学(New York College of Music)で活動を始めた。ニューヨークに居るとき、彼はフリーダ・サックス(Frieda Saxe)と結婚し、アメリカ合衆国市民権を獲得する。1894年にはフィラデルフィアのブロードストリート音楽院(Broad Street Conservatory)、翌年の1895年にはシカゴ音楽院(Chicago Conservatory)に移動。シカゴ音楽院ではピアノ学科代表になった。大成功に終わった1900年のヨーロッパ巡回公演の際、ゴドフスキーはベルリンの地へ再び訪れるが、そこで彼の時間は教育活動と演奏活動で二分した。1909年から1914年にかけて、ゴドフスキーはウィーン音楽院(Konservatorium Wien)のマスタークラスを教える。1914年、第一次世界大戦が勃発し、彼はニューヨクに戻った。ニューヨークにある自宅には当時の著名なピアニストや有名人がしばしば訪れた。特別の仲だったセルゲイ・ラフマニノフからは、“W.R.のポルカ”を献呈されている。<br /><br />終戦を迎えると、ゴドフスキーは演奏活動を再開したが、1930年6月17日、ロンドンでのレコーディング中に脳卒中を起こす。それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ち、同時に1929年の暗黒の木曜日(世界恐慌)で彼が負った莫大な経済的損失を回復させる手立てをも失った。1932年の彼の年下の息子の自殺と1933年の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢(それはゴドフスキーの死期を暗示していた)への彼の絶望と相まり、ゴドフスキーは作曲活動をも止めてしまう。悪化する欧州政情は、ゴドフスキーが構想していた「音楽と音楽家の世界会議」(World Synod of Music and Musicians)や「国際的な音楽教師機関」(International Master Institute of Music)を無に帰した。1938年11月21日、胃癌のためニューヨークで死去。<br /><br /><br />演奏スタイル <br />ダイナミックレンジは狭かったと伝えられるが、一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは多くのピアニストによって証言された。もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、残されている音源からは彼が当代一流であったかどうかを判断するのは難しい。しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり比較的多くの音源が残された。「気が乗っていないまま」弾いてしまったショパンのソナタ第二番などは、彼本人も不満であった。ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど、20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れており、後期ロマン派の脚色が入った表現である。<br /><br /><br />作曲家としてのゴドフスキー <br />ゴドフスキーは、他の作曲家のピアノ小品に基づくパラフレーズで最もよく知られている。それらの作品は、精巧な対位法的処理、豊かな半音階的和声により極限まで昇華される。この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品はショパンの練習曲に基づく53の練習曲だろう。対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、左手独奏用編曲、2曲の同時演奏など様々な手法を用いて、ゴドフスキーはショパンの27の練習曲(それは既に演奏困難なものであるが)をそれぞれ編曲している。これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり、今までに全曲演奏を行った敢然なピアニストはカルロ・グランテ、フランチェスコ・リベッタ、マルカンドレ・アムランの3人だけ。 しかしそれ故か、彼の作曲家としての実力は楽壇に不当に無視され、ゴドフスキーの没後五十年は「ピアニストの書いた難技巧を伴う程度の作品」という不名誉な位置付けに甘んじた。このことは新グローブ音楽辞典が2000年の版になっても、全作品リストが編纂されていないという事実や、カールフィッシャー社から出版された全五巻のゴドフスキー選集の完結が2004年であったこと、その選集の中に子供の為のAPSシリーズが含まれていないことなどに表れている。<br /><br /><br />エピソード <br />なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世(Leopold Godowsky Jr.,1900-1983)はヴァイオリニストになったが、友人のピアニスト・レオポルド・マネス(Leopold Damrosch Mannes,1899-1964)と共にカラー写真の開発に当たり、コダック社の協力により1935年に初の本格的なカラーフィルム「コダクローム」を開発した。彼はジョージ・ガーシュウィンの妹フランセスと結婚している。<br /><br /><br />Cherkassky plays Saint-Saëns/Godowsky<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/AhRmFjtDLxs&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/AhRmFjtDLxs&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Godowsky - Le Cygne<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/WAsQRGoCp_0&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/WAsQRGoCp_0&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-12169732328318569822009-05-12T16:50:00.002+09:002009-05-12T16:59:17.999+09:00シャルル・ヴァランタン・アルカンシャルル・ヴァランタン・アルカン(Charles Valentin Alkan、1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)はフランスのロマン派の作曲家、ピアニスト。<br /><br /><br />略歴 <br /><br />本名はシャルル・アンリ・ヴァランタン・モランジュ (Charles Henri Valentin Morhange) といい、ユダヤ系の家庭に生まれた。アルカンは音楽家であった父の名であり、彼を含む兄弟すべてが音楽家としてアルカンを名乗った。幼くして神童といわれ、6歳でパリ音楽院に入学、ジョゼフ・ジメルマン(Joseph Zimmermann、1785年-1853年…シャルル・グノー、セザール・フランク、ジョルジュ・ビゼーらの師匠でもある)に学んだ。ソルフェージュ、ピアノ、作曲、オルガンでプルミエ・プリ(一等賞)を得る。1829年、室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はオーギュスト・フランショームであり、彼の仲介でショパンと親交を持つこととなる。<br /><br />20代でリストやショパンと並ぶヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして名声を確立した。しかしその後は親友のショパンの死や、ジメルマンの後継者争いに敗れた(この時教授になったのが同窓のアントワーヌ・マルモンテルである)こともあって表立って演奏することは少なく、自宅に閉じこもって一時は聖書やユダヤ教の経典タルムードの研究に没頭したという。その後は、1873年から年に6回のバロック音楽から自作を中心とした演奏会を1877年まで継続した。<br /><br />最期も謎めいていて、宗教書の研究中に書棚が崩れ下敷きになったとも、台所で調理中に倒れたとも言われている。これはマキシミリアン・ドラボルドからの伝聞を、イシドール・フィリップが広めた説による。しかし、隠遁生活を送っている割には出版活動は没年まで継続しており、完全に世捨て人であったかどうかは疑わしい。パリのモンマルトル墓地に埋葬されている。<br /><br /><br />ショパンとは作品のやり取りはなかったが、ショパンはアルカンが主催した演奏会に賛助出演している。また、リストには『思い出―3つの悲愴的な様式による3曲』Op.15を献呈している。また、セザール・フランクからはオルガン曲『交響的大曲』嬰ヘ短調(Grande piece symphonique)Op.17を、アントン・ルビンシテインからは『ピアノ協奏曲第5番』作品94を献呈されている。<br /><br /><br />作風<br /><br />アルカンはショパンと同様にほとんどピアノ作品のみを書き、リストと同様にピアノによる交響的表現を追求した。代表作には練習曲「鉄道」 (Op.27) 、大ソナタ「四つの時代」 (Op.33) 、長短全調からなり超絶的技巧を要する練習曲(長調のOp.35と短調のOp.39)などがある。Op.39の4・5・6・7番は「独奏ピアノのための交響曲」、また8・9・10番は「独奏ピアノのための協奏曲」と銘打たれている。後年になると技巧的な追求を潜め、「随想集」 (Op.63) のように簡潔ながら刺激的な作品を残した。この作品集では、教会旋法、半音階による無調的表現、トーン・クラスターなどの斬新な書法が登場する。また、ペダルピアノにも関心を持ち、作品をいくつか残している。<br /><br />生前に彼の作品が演奏されることは少なかったが、特にリストに与えた影響は大きく、特にピアノ協奏曲第1番、およびピアノソナタ ロ短調はピアノ大ソナタの第2楽章が模範になっていると言えよう。前述のOp.39では調性感覚が同時代のそれと完全に乖離し、「序盤は○○調だが、終盤は△△調」といった感覚が一般に受け入れられるのは20世紀初頭であったことなどから、リストと同様に進歩主義的な感覚で西洋音楽の伝統を捉えていたことになる(正反対の態度をとった者にカール・ライネッケらがいる)。<br /><br />また同じ運指(3-2-4-1)をどのポジションでも用い、なおかつ速く動かすといった概念も同時代の常識からかけ離れており、新たなピアニズムの開発へと繋がっている。<br /><br /><br />受容 <br /><br />死後、彼の作品は20世紀の初めごろまではフェルッチョ・ブゾーニやハロルド・バウアーなどのヴィルトゥオーゾ・ピアニストたちに取り上げられていたが、アルカンの作品を聴いていた聴衆の多くが第二次世界大戦時に失われたこと等を含め、完全に忘れられた。<br /><br />再評価と共に演奏・録音の機会が増えたのは1970年代末に入ってからである。ロナルド・スミスによる「短調による12の練習曲」の全曲録音は発表当時大きな話題となった。その後マイケル・ポンティによる『短調による12の練習曲』抜粋の録音、金澤攝による1984年の全曲演奏とジャック・ギボンズによる1995年の全曲演奏が共にライヴでなされ、この頃からマイナーレーベルの注目を集めるようになった。現在ではマルカンドレ・アムラン、スティーブン・オズボーン、ステファニー・マッカラム、森下唯、飯坂健らのピアニスト達が普及に努めている。何故かアルカンのピアノ独奏作品は、英語圏で注目を集めることが多い。<br /><br /><br />Charles Valentin Alkan: Etude Op 17 - 'Le Preux' The Knight<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/1V0bMaDemhU&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/1V0bMaDemhU&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><br />Alkan: Trois Etudes de Bravoure: Prestissimo<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/M2kMERs2mOM&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/M2kMERs2mOM&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Hirose plays Alkan "Le vent" from Trois morceaux dans le genre pathétique (Souvenirs)<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/bkkXpBqJBug&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/bkkXpBqJBug&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-42109613456699455192009-04-15T09:42:00.002+09:002009-04-15T10:03:34.296+09:00テクラ・バダジェフスカテクラ・バダジェフスカ=バラノフスカ(Tekla Bądarzewska-Baranowska)は、ポーランド出身の女性作曲家・ピアニスト。生年を1834年とする説と1838年とする説がある。日本では一般に、テクラ・バダジェフカとして知られるが、ポーランド語に近い表記はボンダジェフスカである。また、バダルジェフスカと表記されることもある。<br /><br />人物・来歴 <br /><br />バダジェフスカは、本格的な音楽教育は受けていないが、18歳の時に作曲した『乙女の祈り(仏語:La prière d'une vierge)』がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、世界中にその名が知られるところとなった。<br /><br />この曲を作曲したのち、結婚し5人の子供をもうけたとされる。そのほか小品を35曲ほど作曲したのち、1861年に夭折。彼女に関する作品や資料については第二次世界大戦等により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られていない。<br /><br />日本においては『乙女の祈り』はオルゴール曲の定番としても知られている。その他の曲に『ピアノのための華麗な小品 かなえられた祈り~乙女の祈りへの答え(La prière exaucée) 』などがある。<br /><br />2007年にキングレコードからバダジェフスカの作品集がリリースされた。収録曲のほとんどが初録音である。<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%7E%E3%83%90%E3%83%80%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86/dp/B000VB2AYM%3FSubscriptionId%3D1ETH6GFCQ7ZH9T8XAM02%26tag%3Dnetconveni-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000VB2AYM" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/419F-p8IlGL._SL160_.jpg" alt="かなえられた乙女の祈り~バダジェフスカ作品集" align="left" hspace="5" border="0" width="160" height="159" />かなえられた乙女の祈り~バダジェフスカ作品集</a><br>チャプリーナ(ユリヤ)<br>キングレコード<br>発売日 2007-10-24<br><br><br clear="all"><br /><br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%7E%E3%83%90%E3%83%80%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86/dp/B000VB2AYM%3FSubscriptionId%3D1ETH6GFCQ7ZH9T8XAM02%26tag%3Dnetconveni-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000VB2AYM" target="_blank">さらに詳しい情報はコチラ≫</a><br clear="all"><br><br><br /><br /><br />Tekla Badarzewska-Baranowska - The Maiden's Prayer, Op.3<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/yqe5NCoQ1w0&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/yqe5NCoQ1w0&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-72317756627519966732009-04-14T23:42:00.002+09:002009-04-15T00:11:24.321+09:00カミーユ・サン=サーンスシャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、オルガニスト、ピアニスト。<br /><br />現在では、組曲『動物の謝肉祭』、交響曲第3番『オルガン付き』、交響詩『死の舞踏』などが特に有名。その作風は折衷的、あるいは穏健かつ知的といわれる。<br /><br /><br /><br />略歴 <br />1835年に官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏会を開き、16歳ではじめての交響曲を書いている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。やがて作曲家兼オルガニストとして活躍。とくにオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せた彼は1857年に、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任する。1871年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立した。<br /><br />1921年に旅行先のアルジェリアで亡くなっている。<br /><br /><br /><br />作風と評価 <br /><br />音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。<br /><br />その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところであり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」といった話は有名である[要出典]。これは彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもあった。実際にサン=サーンスが完璧と評した生徒の中にピアニストのレオポルド・ゴドフスキーがいる。<br /><br />晩年、印象主義音楽の台頭の中で、近代音楽を批判して古典主義、ロマン主義を貫いたこともサン=サーンスの孤立を強めた。このため、楽界の大御所としての世間的な評価は不遇であった。若き日のドビュッシーは、サン=サーンスの典型的な批判者であった。もちろんこのことは、彼とドビュッシーの目指す音楽に、あまりに大きな差があったというのも一つの原因であろう。しかし、ドビュッシーはサン=サーンスのことを「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない。」とも評価している。<br /><br />当のサン=サーンスはドビュッシーの交響組曲『春』に対して嬰ヘ長調であることを理由に管弦楽に適さないとして酷評しているし、ミヨーに至ってはその複調による不協和音の衝突に対し「精神病院行きの代物」と切り捨てている。しかしながら、『動物の謝肉祭』では和音の平行移動などの印象主義の技法を使っており(「水族館」)、現代音楽の興隆には賛成していたと見られている。当時ですら「楽譜が重箱の隅をつつくようにシステマティックすぎる」書法もドビュッシー以下の若手作曲家の批判の的となっていた。<br /><br />しかし、サン=サーンスは必ずしも古典音楽に隷属していたわけではなく、むしろロマン主義の枠内で新しい形の音楽を創造しようとした、といえるだろう。もしその出生が30年早ければ、あるいはその死が20年早ければ、紛れもなくフランスにおける大作曲家という全く違う評価がされたとも言われている。事実、生前は国家プロジェクトとしての音楽家の地位を得ていたわけであり、フランス史上唯一の国葬を受けた音楽家である。<br /><br />そういう意味で、サン=サーンスは歴史の転換点における犠牲者の一人といえる。音楽史におけるサン=サーンスの最も重要な役割は、ロマン主義と現代音楽の過渡期に於いて、その例を提示したことであり、結果として当時のフランスには受け入れられなかった。しかし最近になってようやく、フランス国内でもサン=サーンスの果たした役割を再評価する動きも出始めている。サン=サーンスのピアノ作品全集の出版が開始されたのが2007年であることにもそれが現れている。<br /><br /><br />Bacchanale - Samson et Dalila - Saint Saëns - バッカナール - サン=サーンス<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/URXS2cdYN_c&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/URXS2cdYN_c&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Animal Carnival-Aqua<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/hOtkmrGwkMs&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/hOtkmrGwkMs&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Carnival of the Animals - The Swan<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Mvh4zEKG2zs&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Mvh4zEKG2zs&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/TgRAA-ew0H4&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/TgRAA-ew0H4&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Organ Simphony n. 3 - Camille Saint-Saëns<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/TS9BuvQzaqs&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/TS9BuvQzaqs&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Xnhhw85zK2I&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Xnhhw85zK2I&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/TCKiZRWyv20&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/TCKiZRWyv20&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/okHrs4Bmugo&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/okHrs4Bmugo&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-84865142684761536492009-03-30T22:22:00.003+09:002009-03-30T23:25:06.448+09:00フランツ・リストフランツ・リスト(Franz Liszt 、ハンガリー語ではLiszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。血統、母語、もっとも長い活躍地はドイツだが、自身生地のハンガリーを祖国と呼び、死後もハンガリー人と記載されることが多い。ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われている。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。<br /><br />生涯<br /><br />オーストリア帝国領内ハンガリー王国のドボルヤーン/ライディング(現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人の母アンナの間に生まれた。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。このや家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であったが、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生もフランス語のほうを多く使っていた。家名の本来の綴りは List で、Liszt とはそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では“sz”の綴りで/s/を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc /Liszt Ferencz)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていた事がある。<br /><br />父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、カール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。パエールの手助けにより翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。<br /><br />また1823年4月13日にウィーンでコンサートを開きそこで、老ベートーヴェンに会うことができ、ベートーヴェンに賞賛されている。その時の石版画が1873年リストの芸術家生活50年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(但し無署名である)。<br /><br />1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。また、教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。<br /><br />1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。<br /><br />1838年のドナウ川の氾濫の時にチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。<br /><br />ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。<br /><br />マリーと別れた後、再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。<br /><br />1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降、『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの12音技法とは違い、スクリャービンやメシアンと同じような旋法的な作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1958年に発見された。<br /><br />リストは、晩年には虚血性心疾患、慢性気管支炎、鬱病、白内障に苦しめられた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。<br /><br />リストは1886年、バイロイトでワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後暫くは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。<br /><br /><br />人物<br /><br />ピアニストとしてのリスト <br /><br />リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。<br /><br />ちなみにショパンの『練習曲 作品10』だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けの良かったリストの演奏に、初めショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。<br /><br />当時無名であったエドヴァルド・グリーグは書き上げた『ピアノ協奏曲イ短調』の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。<br /><br />同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり、「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。<br /><br />幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたと言う。彼の曲には両手を広げて4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。<br /><br />また、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(後のシューマン夫人)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったというエピソードも見られる。<br /><br /><br />作曲家としてのリスト <br /><br />音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。<br /><br />自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群はほとんど全てのジャンルの音楽に精通しているといっていいほど多岐にわたる。<br /><br />彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年~1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃~1860年頃)、晩年(1860年頃~没年)と3つに分けられる。<br /><br />ピアニスト時代は、オペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。<br /><br />ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。<br /><br />晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。<br /><br />またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリザベートの伝説』『キリスト』を始め、『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や、『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。<br /><br /><br />評論家としてのリスト <br /><br />同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも他人の評論を行っている。 例えばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、 シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。 また、ブラームスとワーグナーの二派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。 上にも記載されているが、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。 他にも、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行った。<br /><br /><br />主要作品<br /><br />リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。<br /><br />彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号(S.)と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号(R.)の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。<br /><br /><br /><br />リスト 愛の夢 第3番 変イ長調<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/UqgdOZn62js&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/UqgdOZn62js&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Liszt Consolation No. 3<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/zS5LRRsNYZk&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/zS5LRRsNYZk&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Liszt - Hungarian Rhapsody No.12<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/KAqA2E5D0lI&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/KAqA2E5D0lI&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />リストが実際に弾いたピアノで「ラ・カンパネラ」<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/VAtHpm4sbvY&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/VAtHpm4sbvY&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-40717629278568837192009-03-14T17:36:00.002+09:002009-03-14T17:50:53.295+09:00ヘンリク・ヴィェニャフスキヘンリク・ヴィエニャフスキ(ヴィエニアフスキー,Henryk Wieniawski, 1835年7月10日 - 1880年3月31日)はポーランドのヴァイオリニスト・作曲家。ルブリン出身。<br /><br />ユダヤ人の家系だが、父トビアシュ・ピェトルシュカ(Tobiasz Pietruszka)の代にユダヤ教からカトリックに改宗した。8歳でパリ音楽院に入学し、13歳で独立した演奏家として広く欧米を巡演し、モスクワで客死した。1874年から1877年までブリュッセル音楽院教授として教育活動に従事している。<br /><br />驚異的な技巧と情熱による華麗な演奏が知られ、その作品もまたスラヴ的情緒と名人芸的要素により今日なお愛される。1935年には彼の生誕100年を記念して、現在でもヴァイオリニストの登竜門として知られるヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールが創設された。<br /><br />弟のヨゼフ(ユーゼフ,Josef, 1837年 - 1912年)もピアニスト・作曲家として活躍し、時には兄と共演することもあった。<br /><br /><br />■ヴァイオリン・管弦楽の曲<br /><br />ヴァイオリン協奏曲第1番嬰ヘ短調 Violin concerto No.1 Op.14 <br />ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調 Violin concerto No.2 Op.22 <br />華麗なるポロネーズ(大二重奏曲)第1番ニ長調 Polonaise brillante(Grand duo polonaise)No.1 Op.4 <br />物語(伝説曲) Légende Op.17 <br />「ファウスト」による華麗なる幻想曲 Fantasie brillante sur "Faust" Op.20 <br />華麗なるポロネーズ(大二重奏曲)第2番イ長調 Polonaise brillante(Grand duo polonaise)No.2 Op.21 <br /><br /><br />■ヴァイオリン曲<br /><br />クヤヴィヤーク「ポーゼンの思い出」Kuýawiak "Souvenir de Posen" Op.3 <br />悲歌的アダージョ Adagio élégiaque Op.5 <br />モスクワの思い出 Souvenir de Moscou Op.6 <br />カプリッチョ・ワルツ(奇想円舞曲) Capriccio-valse Op.7 <br />奇想曲 Caprices(3曲) Op.8 <br />ロシアの謝肉祭 Le carnaval russe Op.11 <br />新しい手法 L'école moderne Op.10 <br />2つのマズルカ 2 Mazurkas Op.12 <br />創作主題による華麗なる変奏曲 Variations brillante sur thème originale Op.15 <br />スケルツォ・タランテラ Scherzo-tarantelle Op.16 <br />エチュード・カプリース Etudes-caprices Op.18 (2つのヴァイオリンの為の作品) <br />2つの性格的なマズルカ 2 Mazurkas characteristique Op.19 <br /><br /><br />Polonaise Brillante No.2 by Jacques Thibaud 華麗なるポロネーズ<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/QTkXK5sKZrU&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/QTkXK5sKZrU&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Heifetz plays Wieniawsky Concerto No. 2<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/SyzZL8L7VlI&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/SyzZL8L7VlI&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Jascha Heifetz plays Wieniawski Polonaise No. 1 in D Major<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/21dsRBeIy8A&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/21dsRBeIy8A&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-4203599095376926332008-12-04T00:12:00.002+09:002008-12-04T00:25:54.957+09:00グスタフ・マーラーグスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)はウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。<br /><br /><br />生涯<br /><br />1860年(0歳) 7月7日、父ベルンハルト・マーラー Bernhard Mahler(1827-1889)と母マリー・ヘルマン Marie Hermann(1837-1889)の15人とも言われる子供の第2子として、オーストリア領ボヘミアの、イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に出生。長男は早世したので、いわば長男として育てられる。 <br />1864年(4歳) 本人の回想によれば、この頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。 <br />1870年(10歳) 10月13日、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行う。曲目は不明。 <br />1875年(15歳) ウィーン楽友協会音楽院に入学。弟エルンストが13歳で没。 <br />1876年(16歳) 及び1877年(17歳)演奏解釈賞と作曲賞を受ける。 <br />1877年(17歳) ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの対位法の講義を受け、2人の間に深い交際が始まる。 <br />1878年(18歳) 作曲賞を受け、7月11日、卒業。 <br />1883年(23歳) 9月、カッセル王立劇場の副指揮者となる。 <br />1884年(24歳) ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。6月、音楽祭でベートーヴェンの《第9交響曲》とフェリックス・メンデルスゾーンの《聖パウロ》を指揮して、指揮者として成功。 <br />1885年(25歳) 1月《さすらう若者の歌》を完成。プラハのドイツ劇場の副指揮者。この年は窮乏を極める。 <br />1886年(26歳) 8月、ライプツィヒ市立劇場で副指揮者。この年《子供の不思議な角笛》作曲。 <br />1888年(28歳) この年《交響曲第1番ニ長調「巨人」》生まれる。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。 <br />1889年(29歳) 1月、リヒャルト・ワーグナーの《ラインの黄金》と《ワルキューレ》のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得る。2月父を失い秋に母を失う。 <br />1891年(31歳) 4月、ハンブルク市立劇場の正指揮者となる。 <br />1895年(35歳) 2月6日、弟・オットーが21歳で自殺。 <br />1896年(36歳) シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて《交響曲第2番ハ短調「復活」》、《交響曲第3番ニ短調》を書く。 <br />1897年(37歳) 春、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場指揮者に任命され、10月に芸術監督となる。 <br />1898年(38歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。 <br />1899年(39歳) 南オーストリアのヴェルター湖岸のマイヤーニックに山荘を建て《交響曲第4番ト長調》に着手。 <br />1901年(41歳) 12月、「私の音楽を貴女自身の音楽と考える事が出来ませんか?」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲を辞めるように申し出る。彼女はその後作曲の筆を折る。なお、アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残している(UNIVERSAL社が出版)。 <br />1902年(42歳) 3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。2人とも初婚であった。10月、長女マリア・アンナ誕生。 <br />1903年(43歳) フランツ・ヨーゼフ1世皇帝から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーナ誕生。 <br />1904年(44歳) 4月シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに創造的音楽家協会を設立しマーラーを名誉会長とした。 <br />1907年(47歳) 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身は心臓病と診断される。12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。 <br />1908年(48歳) 5月ウィーンへ戻る。トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドビアッコ)にて《大地の歌》を仕上げる。秋に再度渡米。 <br />1909年(49歳) ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰り、10月、渡米。 <br />1910年(50歳) 4月ヨーロッパに帰る。ドビュッシーやデュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジグムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。自作自演では初の大成功を収める。 <br />1911年(51歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。臨終の言葉は「モーツァルト・・・」だと言う。 <br /><br /><br />人物・作品<br />出自に関して、「私はどこに行っても歓迎されない。“オーストリアにおけるボヘミア人”(下記の生涯参照)、“ドイツにおけるオーストリア人”、そして“世界におけるユダヤ人”だから」と述べたと伝えられる。<br /><br />交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴である。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく、『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲であるが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。<br /><br />歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境が余りはっきりしないのも特徴の一つである。ちなみに現代作曲家のルチアーノ・ベリオはピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。<br /><br />多くの作品においては調性的統一よりも、曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは、「新ロマン主義」が流行した1970年代からであり、幸か不幸か前衛の停滞が彼の名声に大きく貢献した。<br /><br />アマチュアリズムが大好きであり、アイヴズの交響曲第三番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由だけだったとも言われている。<br /><br />指揮者としては、自身と同じユダヤ系のブルーノ・ヴァルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えた。特に徹底した音楽性以上の完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法はカリカチュア化されるほどの衝撃を当時の人々に与えた。残念なことにオーケストラの演奏の録音は時代の制約もあり残っていないが、交響曲や歌曲を自ら弾いたピアノロール、および唯一ピアノ曲の録音(ただし信憑性に疑問がある)が残されている。ニューヨーク・フィルハーモニック在任中、その演奏する曲の譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、この譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されている。もっとも、シューマンの『交響曲第2番』、『交響曲第3番「ライン」』の演奏では、マーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。<br /><br /><br />主要作品<br /><br />交響曲・管弦楽曲<br />交響的前奏曲ハ短調(偽作とみなされることが多い。 ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照) <br />交響曲第1番ニ長調「巨人」 <br />交響曲第2番ハ短調「復活」- 独唱(ソプラノ、コントラルト)、合唱付 <br />交響曲第3番ニ短調 - 独唱(コントラルト)、合唱、少年合唱付 <br />交響曲第4番ト長調 - 独唱(ソプラノ)付 <br />交響曲第5番嬰ハ短調 <br />交響曲第6番イ短調「悲劇的」 <br />交響曲第7番ホ短調「夜の歌」 <br />交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 - 独唱(四声部)、2群の合唱、少年合唱付 <br />交響曲第9番ニ長調 <br />交響曲第10番嬰ヘ長調(未完成。デリック・クックらによる補作あり) <br />交響曲「大地の歌」イ短調 - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)付 <br />北欧交響曲(初期の作品だが散逸) <br />交響曲 イ短調(散逸) <br />コンクールのための課題の交響曲(散逸) <br /><br /><br />声楽曲<br />カンタータ「嘆きの歌」 <br />歌曲集「若き日の歌」 <br />歌曲集「さすらう若者の歌」 <br />歌曲集「少年の魔法の角笛」 <br />リュッケルト歌曲集 <br />歌曲集「亡き子をしのぶ歌」 <br />3つの歌曲 <br />2つの歌曲(散逸) <br />トルコ人たちには美しい娘がいる(散逸) <br />「歌、合唱、活人付きの詩」のための民謡(散逸) <br /><br /><br />室内楽曲<br />ピアノ四重奏曲断章 イ短調 <br />ヴァイオリン・ソナタ(散逸) <br />ピアノ五重奏曲第1番(散逸) <br />ピアノ四重奏曲(第2番)(散逸) <br />夜想曲(散逸) <br /><br /><br />その他の作品<br />交響詩 葬礼(本来、交響曲第2番の第1楽章の草稿) <br />スケルツォ(未完成) <br />花の章(本来、交響曲第1番の第2楽章の原型) <br />葬送行進曲の序奏付きのポルカ(最初の作品で、6歳の時に作曲。しかし散逸) <br />ピアノ小品集(散逸) <br />劇付随音楽 ゼッキンゲンのラッパ吹き(散逸) <br />へーラーの歌曲への前奏曲(作曲者により破棄) <br /><br /><br />歌劇<br />いずれも完成されてはいない。 <br />歌劇 アルゴー号の勇士たち(未完成、散逸) <br />歌劇 リーベツァール(未完成、散逸) <br />歌劇 シュヴァーベン公エルンスト(破棄) <br /><br /><br />編曲作品<br />ウェーバー:歌劇「3人のピント」補筆 <br />ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」 <br />ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番「セリオーゾ」弦楽合奏版 <br />シューベルト:交響曲ハ長調D.944 <br />シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」弦楽合奏版 <br />シューマン:交響曲全曲 <br />J. S. バッハ:管弦楽組曲<br /> <br /><br />Gustav Mahler Symphony no.2 "Resurrection" movement 5 part 1<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/z7sgq-UgWR4&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/z7sgq-UgWR4&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br /><br />Mahler Symphony No.2<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/_dlpPzM6OC4&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/_dlpPzM6OC4&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2037616252592737834.post-29002425666864609102008-10-23T16:24:00.001+09:002008-10-23T16:31:53.137+09:00ウジェーヌ・イザイウジェーヌ=オーギュスト・イザイ(Eugène-Auguste Ysaÿe, 1858年7月16日リエージュ - 1931年5月12日ブリュッセル)は、ベルギーのヴァイオリン奏者、作曲家、指揮者。ヴァイオリニストとしては、アンリ・ヴュータン、ヘンリク・ヴィェニャフスキの指導を受けて才能を伸ばし、その高い技術で多くの聴衆を惹き付け、ヴァイオリン音楽に大きな影響を与えた。<br /><br />作曲家としてはヴァイオリンのための曲を残しており、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを強く意識した無伴奏ヴァイオリン・ソナタがよく演奏される。<br /><br />ヴァイオリンにおけるビブラート技法を確立した。 <br />イザイ弦楽四重奏団は自身が設立した。 <br />イザイ国際コンクール(エリザベート王妃国際音楽コンクール(1951-)の前身)は彼に因んでいた。 <br />無伴奏ヴァイオリンソナタは高い演奏技術を要求されるため、しばしばコンクールの課題曲にされる。 <br /><br /><br />主な作品<br /><br />子どもの夢(rêve d'enfant) (ヴァイオリンと管弦楽のための) 作品14 <br />無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 作品27 (1924) : 6曲それぞれ別のヴァイオリニストに捧げられており、彼らを意識して書かれている <br /><br />第1番 ト短調 (献呈: ヨゼフ・シゲティ) <br />第2番 イ短調 (献呈: ジャック・ティボー) <br />第3番 ニ短調 「バラード(Ballade)」(献呈: ジョルジェ・エネスク) <br />第4番 ホ短調 (献呈: フリッツ・クライスラー) <br />第5番 ト長調 (献呈: マチュー・クリックボーム(Mathieu Crickboom, イザイの弟子)) <br />第6番 ホ長調 (献呈: マヌエル・キロガ(Manuel Quiroga, スペイン出身の演奏家)) <br />無伴奏チェロ・ソナタ 作品.28(ガスパール・カサドの依頼により作曲、彼に献呈されている。) <br />ヴァイオリン協奏曲のカデンツァも多い。(ヴィオッティ)<br /><br /><br />Eugene Ysaye plays Mendelssohn 1912<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/_tQz002vTHA&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/_tQz002vTHA&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Eugene Ysaye Plays Mendelssohn Concerto (mov. 3)<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/v9Zk66YL24c&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/v9Zk66YL24c&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />Eugene Ysaye Plays Vieuxtemps Rondino<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Sv1pWXzQnP0&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Sv1pWXzQnP0&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>V.Rhttp://www.blogger.com/profile/03357043809655817397noreply@blogger.com0