2009年3月30日月曜日

フランツ・リスト

フランツ・リスト(Franz Liszt 、ハンガリー語ではLiszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。血統、母語、もっとも長い活躍地はドイツだが、自身生地のハンガリーを祖国と呼び、死後もハンガリー人と記載されることが多い。ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われている。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。

生涯

オーストリア帝国領内ハンガリー王国のドボルヤーン/ライディング(現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人の母アンナの間に生まれた。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。このや家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であったが、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生もフランス語のほうを多く使っていた。家名の本来の綴りは List で、Liszt とはそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では“sz”の綴りで/s/を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc /Liszt Ferencz)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていた事がある。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、カール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。パエールの手助けにより翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。

また1823年4月13日にウィーンでコンサートを開きそこで、老ベートーヴェンに会うことができ、ベートーヴェンに賞賛されている。その時の石版画が1873年リストの芸術家生活50年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(但し無署名である)。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。また、教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。

1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。

1838年のドナウ川の氾濫の時にチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

マリーと別れた後、再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。

1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降、『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの12音技法とは違い、スクリャービンやメシアンと同じような旋法的な作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1958年に発見された。

リストは、晩年には虚血性心疾患、慢性気管支炎、鬱病、白内障に苦しめられた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。

リストは1886年、バイロイトでワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後暫くは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。


人物

ピアニストとしてのリスト

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。

ちなみにショパンの『練習曲 作品10』だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けの良かったリストの演奏に、初めショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。

当時無名であったエドヴァルド・グリーグは書き上げた『ピアノ協奏曲イ短調』の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。

同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり、「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。

幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたと言う。彼の曲には両手を広げて4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。

また、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(後のシューマン夫人)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったというエピソードも見られる。


作曲家としてのリスト

音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。

自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群はほとんど全てのジャンルの音楽に精通しているといっていいほど多岐にわたる。

彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年~1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃~1860年頃)、晩年(1860年頃~没年)と3つに分けられる。

ピアニスト時代は、オペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。

ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。

晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。

またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリザベートの伝説』『キリスト』を始め、『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や、『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。


評論家としてのリスト

同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも他人の評論を行っている。 例えばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、 シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。 また、ブラームスとワーグナーの二派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。 上にも記載されているが、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。 他にも、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行った。


主要作品

リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。

彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号(S.)と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号(R.)の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。



リスト 愛の夢 第3番 変イ長調


Liszt Consolation No. 3


Liszt - Hungarian Rhapsody No.12


リストが実際に弾いたピアノで「ラ・カンパネラ」