2009年7月30日木曜日

エミール・ワルトトイフェル

エミール・ワルトトイフェル(Émile Waldteufel, 1837年12月9日ストラスブール - 1915年2月12日パリ)は、フランスの作曲家。大衆音楽、とりわけワルツ「スケートをする人々」「女学生」やポルカなどのダンス音楽の作曲家。出身地アルザスはドイツ語圏であり、1793年以前および1871年から1918年まではドイツ領であったが、ワルトトイフェルもその名が示すとおり、シャルル・ミュンシュ、アルベルト・シュバイツァーらの多くのアルザス人と同じくドイツ系といわれる。

生涯
一族は音楽家、父ルイは有名なオーケストラの統率者で、兄レオンは人気の音楽家だった。レオンがパリ音楽院に入学したのを期に、一家でパリに転出し、以降エミールは一生をこの地で過ごす。1853年から1857年までパリ音楽院でピアノを学ぶ。同級生に有名なオペラ作曲家マスネがいた。この間、父親のオーケストラがパリで最も有名な楽団となり、しばしばエミールも重要な行事に招かれて演奏した。

28歳の時、ナポレオン3世の皇后ウジェニーの宮廷ピアニストになる。普仏戦争の後は、父親の楽団がエリゼ宮の大統領の間で演奏を行なった。この頃にはエミール・ワルトトイフェルの名はフランス上流社会の間ではほとんど知られておらず、有名になったのはやっと40歳になってからだった。

1874年10月にワルトトイフェルは、当時英国皇太子だったエドワード7世の臨席する行事で演奏を行う。自作のワルツ『マノロ』(Manolo )にエドワード7世が魅了されると、ワルトトイフェルの名はイングランドで有名になり、ロンドンを拠点とする出版社Hopwood & Crewが彼と長期契約を結んだ。だからといって、ワルトトイフェルの作品がバッキンガム宮殿において御前演奏されたということにはならない。ワルトトイフェルの名はロンドンの楽壇を制すると、世界中で有名になった。最も有名な、今なおよく演奏されるワルトトイフェルの作品が作曲されたのも、この時期である。有名な『スケーターズ・ワルツ』(Les Pâtineurs )が作曲されたのは1882年のことである。

エミール・ワルトトイフェルはいくつかのヨーロッパの都市で演奏を行なった(1885年ロンドン、1889年ベルリン、1890年~1891年パリ)。1899年に宮殿の間のためのダンス音楽を作曲・指揮して引退するまで、活動を続けた。

声楽家の夫人セレスティーヌ・デュフォーとの間に二男一女をもうけた。



主要作品

ワルトトイフェルは、ヨハン・シュトラウス2世と違って、ヴァイオリンの弓よりも指揮棒を振って楽団を指揮した。作曲はまずピアノで行なってから、後でオーケストレーションを施した(近年、ピアノによる草稿の録音がCDで発売されている)。

ワルトトイフェルのオーケストレーションは2管編成を基準としつつも、金管楽器が充実している。シュトラウスの大胆で「男性的な」作風に比べると、ワルトトイフェルは巧妙な和声法と優雅なフレーズが特徴的である。ワルトトイフェルの作品は革命的とはいえず、そういうわけで印象主義音楽がパリを制する時代となると、時代の趣味から取り残されたのである。


ワルツ「テレサ」または「アントワネット」 Térésa (Antoinette) waltz op.133 (1864)
ポルカ=マズルカ「草上にて」 Dans le champs op.125 (1868)
ワルツ「すみれ」 Violettes op.148 (1876)
ワルツ「私の夢」 Mon rêve op.151 (1877)
ワルツ「ポモーヌ」 Pomone op.155 (1877)
ワルツ「水の妖精」 Les Sirènes op.154 (1878)
ワルツ「愛しの彼女」 Très Jolie op.159 (1878)
ワルツ「金色の雨」 Pluie de diamants op.160 (1879)
ワルツ「魅力的な彼女」 Ma charmante waltz op.166 (1879)
ワルツ「孤独」 Solitude op.174 (1881)
ワルツ「スケートをする人々」(スケーターズ・ワルツ) Les Pâtineurs op.183 (1882)
ワルツ「女学生」 Estudiantina」(1883)
軍楽風ワルツ「擲弾兵」 Les Grenadiers op.207 (1886)
シャブリエの狂詩曲に基づくワルツ「スペイン」 España op.236 (1886)
ポルカ「ロココ風」 Rococo-Polka op.232 (1888)
ワルツ「まぼろし」 Vision op.235 (1888)